2011年4月7日木曜日

東日本大震災 東京電力福島第1原発 52



これから東日本大震災に関して、私の大先輩にあたる方がまとめた情報を発信します。
これらの情報は新聞、テレビのネット版、2ちゃんねる、またいろいろの人のブログから拾ったものだそうです。







震災で明らかになった政治の深刻な構造的課題

「真性ねじれ」が阻む危機時の政治的意思決定
 311ショック(巨大地震、大津波、原発事故)は、人命救助、被災者支援、原発施設の安定化、放射能からの避難、食品の汚染など、次々に緊急対応の課題を突きつけている。それぞれに応えていくことはもちろん重要だ。しかし、日々の短期的な対応に追われていればこそ、長期的な課題について考えておくことも必要だ。
 今回の311ショックは改めて構造的な課題を考える契機ともなっている。これにはいくつかのタイプがある。例えば、「今回の災害があって改めて鮮明になった構造的課題」がある。原始力発電所の安全性、災害弱者としての高齢者の存在などがそれである。また、「災害からの復興を新しい日本の姿につなげていく」という視点も必要だ。復興を単なる過去の復元とするのではなく、安全で高齢者に優しい地域づくりにつなげていくといったことがこれに当たる。
この二つの視点を併せ持つ日本の構造的課題。それが日本の政治だ。
震災後の政治への失望
 実のところ、今回の災害が起きる前、この連載の第3回(323日)は、日本の政治的意思決定の課題を、「ねじれの経済学」として取り上げるつもりだった。 そこに起きたのが311ショックである。これで私の執筆予定はすっかり狂ってしまった。それは、「もっと大きな課題が出てきた」というだけではなく、「書こうと思っていた課題が解決してしまった」(と思った)からである。しかし悲しいことに全くそうはならなかったのだ。
 私は、震災前に、日本の政治的意思決定システムは機能不全に陥っており、これが経済にとっても最大のリスク要因になると考えていた。これを再び機能させるためには、政策決定に際して与野党が政策面で歩み寄り、特に長期的な課題に対しては、超党派の合意で対応していくような慣行を形成していくことが必要だと考えていた。
 しかし、それは言うは易く行うは難し。よほどの国家的な危機にならなければ、超党派合意などは期待できないだろうと考えていた。ところが、まさに最大級の国家的危機になったのだ。
 311ショックの後、私は、これで超党派合意の先例ができるだろうと考えた。危機の直後、野党である自民党からは「政府のやりたいようにやればいい。何でも協力する」という声が聞かれた。私は、民主党がマニフェストの実現をあきらめてこれを復興財源とする代わりに、自民党に協力を求める。自民党もこれに協力して、当初の予算案を通し、改めて補正予算を編成する。与野党の党首が揃って記者会見して、国民に一致協力した対応を求めるという図まで想像していた。
 民主党はもともと内心ではマニフェストを負担に思っていたはずだ。今回の災害で巨額の財源が必要であり、これ以上国債に頼ることは危険であることは誰にでも分かるのだから、これを機会に、上記のようなシナリオが実現するだろうと考えたのだ。
 ところがこのシナリオがなかなか実現しない。これほど明瞭な戦略をどうして民主党は採用しないのか? 新聞を読むと依然としてマニフェストへのこだわりがあるということらしいが、これほどの危機が起きたのだから、マニフェストの前提はとうに吹き飛んでいる。なぜまだマニフェストにこだわるのか? あまりにも不思議な出来事に、私は考えていると気持ちが悪くなりそうであった。
 冒頭の311ショックと構造的課題の議論に戻ると、私はこの震災を契機として超党派合意の慣行が形成され、これからの政治的意思決定のモデルになって欲しいと思った。それが「災害からの復興を新しい日本の姿につなげていく」ということである。しかし、それは今のところ実現していない。これほどの危機に際しても超党派合意が実現しないのであれば、どんな問題にも超党派合意などあり得ないことになる。「今回の災害があって改めて日本の深刻な構造的課題が明瞭になった」ということである。
 ではなぜ私はこの点にそれほど期待していたのか? この点を理解していただくためには、震災前の状況に戻ってもらうことになる。
「ねじれ」とは何か
 震災前の日本の政治にとっての最大の問題は「ねじれ状態」の下で、いかにして円滑な政治的意思決定を行っていくかであった。では「ねじれ」とは何か。
 「ねじれ状態」とは、衆議院と参議院で多数政党が異なることを指す。ねじれ状態になると、内閣の政策遂行能力はかなり阻害される。それは、衆参両院の関係が次のような三層になっているからだ。
 第1層は、首相指名、予算、条約であり、これについては憲法で衆院の議決が優越すると規定されている。簡単に言えば、参議院が違う決定をしても「関係ない」わけだ。
 第2層は、法律の成立であり、これについては衆議院と参議委員の議決が異なった時でも、衆議員が再び3分の2以上の多数で議決すれば通過する。与党が衆議院で3分の2以上の多数を取っていればかなりのことはできるわけだ。
 第3層は、これ以外の案件であり、衆参両院での同意が必要となる。
 もう少し整理してみよう。日本の戦後政治史では、いくつかの例外はあったが、基本的には、衆議院での与党が参議院でも与党となっている場合ほとんど、つまり「ねじれていない」状態であった。だからこそ日本の政治的意思決定システムが抱えている潜在的な問題点が分からなかったのだ。
 さて、ねじれには二つのタイプがある。一つは、衆議院で与党が3分の2を超えた多数を占めてはいるもの、参院では野党というケースだ。これを「準ねじれ」と呼ぼう。
 もう一つが、衆院与党が過半数ではあるが3分の2を超えることができず、参院では野党というケースだ。これが「真性ねじれ」である。今の状況はこれに当たる。
 ただし、よく考えみると、準ねじれが生じるのはそれほど多くないと思われる。なぜなら、これが生じるためには、衆議院選挙で大勝した後、一転して次の参議院選挙で敗れるというシチュエーションが必要となるからだ。
 逆に、真性ねじれは今後頻繁に登場する可能性が高い。2大政党が現実的に政権を担う能力を持ち、衆参両院選挙のたびに与野党の逆転が常にあり得るからだ。つまり、我々は現在のようなねじれ状況が常にあり得るという前提で政治的意思決定の仕組みを整備していく必要があるわけだ。

政治的意志決定の日本型特徴

 ところが、日本の政治慣行は、長期にわたって続いた「ねじれがない」状態の下で形成されてきた。それは次のようなものだった。
 2大政党の元では、政党の主張は似通ったものになってくるという議論がある。これについては、既に「実は「似たもの政策」、国民の利益はどこへ?」(200993日)で述べたことなので、ここでは簡単に述べるにとどめる。要するに、政権を担う可能性のある政党が、過半数を目指してできるだけ多くの支持者を得ようとすれば、中間に位置する層が支持するような政策を打ち出すようになるから、どうしても似たものになってくるという議論である。
 この議論を逆に考えると、「どうせ政権を取るのは無理だ」と考えている政党は、一部の人しか支持しないような思い切った政策を主張できるということでもある。政党名は出さないが「確かにそうだ」と思う読者は多いのではないか。
 さて、かつての「ねじれていない」状態の野党は、まさにこの「政権を担うつもりのない政党」であった。すると、国会での議論は次のような特徴を持つことになる。
 第1は、野党は何でも反対型になる。与党の政策を変えることは難しいわけだから、現実性を考慮しない理想的な政策を掲げて反対することになる。
 第2は、野党は、政策でポイントを稼ぐよりも、大臣をクビにしたり、審議を遅らせたりして、いわば「嫌がらせ」をすることでポイントを稼ごうとする。どうせ頑張っても政策面で妥協は得られないからだ。
 第3は、政策については、与党内での議論が中心になる。政策に関しては多面的な角度からの議論が必要となるのだが、そうした「詰め」の議論は自民党が与党だった時代の政策調査会で盛んに議論されていた。党を出てしまえば実現はほぼ保障されているのだから、党内での議論が最も真剣な議論の場となっていたのである。
 こうして「政治的意思決定の日本型システム」とも言うべきものが形成されていったのだ。

ねじれと政策遂行能力

 ところが、ねじれがない状態で形成されてきた日本型政治的意志決定システムは、ねじれ状態においては、政策遂行能力を劇的に低下させることになる。
 「準ねじれ」であっても政策遂行能力はかなり低下する。例えば、政府の同意人事案件がある。日銀総裁、副総裁、審議委員などの人事は国会の同意が必要なのだが、これには衆院の優先規定も、3分の2によるオーバーライドの規定もない。参院が同意しないと成立しないのだ。これは、2008年に、武藤前日銀副総裁を総裁にするという案に参院与党であった民主党が反対したことによって現実のものとなった。
 なお、ほとんどの人は気が付かなかったであろうが、331日の新聞の片隅に、自民党が日銀政策委員会審議委員の人事案に反対しないことが決まったという記事があった。自民党は、かつての民主党のように反対することもできたわけだが、今回はそれをしなかったということである。
 準ねじれでも難航するのだから、真性ねじれではかなり大きな問題が生じる。予算が通っても予算関連法案が通らないことになるので、事実上政策遂行能力はほとんどゼロになってしまう。特に問題となるのは、赤字国債特例法の存在である。
 国債には、社会資本などを建設する財源となる「建設国債」と、それ以外の「赤字国債」がある。法律では、赤字国債の発行は原則として禁止されており、その都度特例法を制定して、国債発行額を決める必要がある。
 すると、真性ねじれ状態で、参院野党が特例法に反対すると、赤字国債が発行できなくなり、やや想像を絶する混乱をもたらすことになる。2011年度予算は92.4兆円の歳出のうち4割強の40.7兆円が赤字国債で賄われることになっている。4割強も歳入に穴が開いてしまったらすぐに資金繰りに行き詰ってしまう。
 この問題は財政再建とは無関係なのだが、海外からは財政をめぐる混乱という点で、ギリシャなどと同一視され、長期金利が上昇したり、円安になったりする可能性がある。
 この問題は、現時点においてもまだ解決されていないのだが、私の震災前の最大の懸念事項はこれだったのだ。

ねじれにどう対応するか

 では、このねじれ下での政策遂行能力低下問題をどう解決すべきだろうか。すぐに出てくるのが、政党の離合集散による解決だ。しかし、私はあまり賛成できない。理念なき結びつきになりがちだからだ。
 例えば、民主党は、公明党と組めば「参議院で過半数」、社民党と組めば「衆議院で3分の2」を確保できる。事実、民主党はその両方を試みたようだ。すると、衆議院では社民党に働きかけ、参議院では公明党に働きかける。どちらかの働きかけが実現すれば、他方の働きかけは必要なくなる。これは、全くの数合わせの世界である。
 最も望ましいのは、案件ごとに、与野党がお互いに歩み寄って合意を形成していくことだ。ただでさえ、日本の経済社会には長期的な課題が多い。長期的な課題に対応する政策は、長期的に安定的な政策である必要がある。例えば、年金制度は多くの人々の将来設計を決めるのだから、一度決めたら長期的に安定していて欲しい。そのためには、政権交代があるたびに年金制度を見直すのではなく、与野党合意の超党派で制度設計を行う必要がある。
 これには実例がある。例えば、金融危機後の1998年秋の国会では、小渕恵三首相は政府提出の金融再生法案をあきらめ、民主党案を丸のみして危機に対応した。しかしこれは、金融危機という非常事態だったからこそ可能であったのであり、平時においてこの手法に期待することは難しい。

改めて政治の構造改革を求めたい

 ここまでが、私が311ショック前までに考えていたことである。
 私が期待した超党派合意は今のところ成立していない。財政赤字特例法案のめども立っていない。しかし、最近になって遅まきながらようやく与野党の対立ムードが薄れ、力を合わせて難局を乗り切ろうという動きが出てきたようだ。大連立の形成という話も現実味を帯びてきた。
 米国のブルッキングス研究所は318日に“Devastation in Japan”というシンポジウムを開催している(テキストは同研究所のウェブサイトで読むことができる)。
 災害後ほとんど間をおかずに、有識者が集まって質の高い議論を行い、その成果を世界に発信するという姿勢は我々も見習いたいものだ。このシンポジウムの中で、同研究所のリチャード・ブッシュは、日本の政治に強い懸念を示し、次のように述べている。
 「この危機によって短期的には日本の政治の安定性は回復するだろう。(中略)しかしそれはいつまで続くのだろうか。日本の政治は再び日常的な姿に戻ってしまうのではないか。これこそが日本の危機だ。日本の政治家は、今回の災害によってかもし出された協調的な風土を、より基本的な問題に向けていって欲しい」と述べている。
 私も、今回の災害を契機に、政策論議を踏まえた超党派での合意形成が図られるような慣行を是非作って欲しいと思う。そしてそれを、一過性に終わらせることなく、年金、医療、税制、子育てなど日本が直面している重要課題に適用して欲しい。
 大きな悲劇は既に起きてしまったのであり、これを元に戻すことはできない。我々にできる唯一のことは、この悲劇の中から少しでも多くの「明日の日本につながるような芽」を育てていくことである。
日経ビジネス46

小峰 隆夫(こみね・たかお)法政大学大学院政策創造研究科教授。1947年生まれ。69年東京大学経済学部卒業、同年経済企画庁入庁。2003年から同大学に移り、084月から現職。著書に『日本経済の構造変動』、『超長期予測 老いるアジア』『女性が変える日本経済』、『最新日本経済入門(第3版)』、『データで斬る世界不況 エコノミストが挑む30』、『政権交代の経済学』、『人口負荷社会』ほか多数。

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